今思えば、ブログを書いたりHPを作ったり、なんだかんだで
もう10年ぐらい、企画して作っては飽きて辞めて、作っては辞めて
を繰り返してきましたね。
なんならラジオとかやってましたからね、今となっては懐かしい。
ほんまにな、そういや「もぐらる」どこ行ったんやろ
そんな感じで企画して、飽きて、辞めてを繰り返してる僕なんですけど
飽きやすいって一種の才能だと思うんです。
いや、割とマジで才能の一種だと思いますよ。
というか、得意不得意が人と違うだけであって
自分のセンサーが動いてしまうから、自分自身はどんどん心が惹かれていくのです。
まさに生まれたての子供のように、目に映る世界は好奇心でいっぱいです。
そんな純粋さをわざわざなくす必要はないのです。
って事です(本気)
実際、本当に世界は面白いことで満ち溢れてると思ってて
ほぼ毎日、何らかの刺激を受けて考え事をしてます。
学生の頃は全く読んでなかったけれど、大人になった今
本をめちゃくちゃ多読する様になりました。
何故なら本を読むと自分の知らない世界がそこには広がっているから。
なんせ、知らない事が多過ぎるんですよね。
そして好奇心が強すぎて一つ一つを深堀りしてしまう。
例えばダイエット一つでも、何故太るのか?何故痩せるのか?
何を食べれば太って、その食べる物の何が太らせるのか?
その太らせる物はどんな性質があるのか?とか
まさにこれで、好奇心に任せて深堀りし続けると最初に戻れなくなるんです。
ただのその代わり、興味の幅と知識の幅は広かったりもします。
本質的に考えると、ワーキングメモリーの能力が高い人は目の前で起きたことも瞬時に記憶することができます。その後で長期記憶にするかどうかというのはその後の体験にもよりますが、ワーキングメモリーの能力が低い人よりも目の前の体験をより細かく記憶することができます。ワーキングメモリの高い人の方が一つの体験から多くの喜びや多くの情報を得ることができます。だから飽きっぽくなるわけです。
確かに知識は不要な物も多いし、インターネットが普及する事によって
情報過多な時代になった事で、敢えて知ろうとしない選択も必要な時代になったと思います。
ただ、やはり情報を多くインプットしておくとある日、本当に起こるんです。
ジョブズの有名な演説の一節ですね
点と点はいずれ繋がる
丁度僕らの世代は「ゆとり教育」と言われてた世代で
散々皮肉を受けた世代でもあるんですが
結局今を振り返って見てみた時に思った事は
自分の好きな事をする為に五教科や基礎教科が必須になる事に気付く
でした。
デザインだろうとプログラミングだろうと音楽だろうと
全て理論が前提で成り立ってるんですよ。
絵を描くのが好きで絵を描くことを突き詰めていれば何れ
綺麗な絵を描く為の配置や形にたどり着く
その時よくあるのは「黄金比」ですが、これは1対1.618の比率で成り立ってます。
完全に数学なんですよね。
色だって可視光の組成の差です。科学です。
そう考えると、どの分野も突き詰めれば理論が必要になって来るし
その理論の基礎は学校であれほど嫌だ嫌だと言っていた五教科に辿り着きます。
でも不思議な事に好奇心を持って五教科を見ると、苦痛どころか
めちゃくちゃ楽しかったりするんですよね。
ゆとり教育は各教科の項目を減らす代わりに、自主的な学習の機会を増やす教育法でした。
僕らの学校では朝15分間読書する時間があったりしてましたね。
詰まる所、ゆとり教育は「勉強→好奇心」ではなく「好奇心→勉強」の順番に
置き換えた教育法だったのではないかと思うのです。
詰まる所、俺の中ではゆとり教育は間違ってない。
いや、まぁでも本当にそう思います。
割とこの順序が入れ替わっている人、多いと思うんですが
勉強もそうだし、活動や行動なんかもそうです。
「覚える事」や「成し遂げる事」が目的ではなくて
それをする事によって自分にとって良い事が起こるから
「記憶」や「行動」が出来るんです。
結局な所、人間は自分が楽しいと思った事しか出来ない様に作られてるんです。
寧ろ飽きれなくて困る人も居たりしますよね、パチンコとか釣りとかゲームとか
まぁなんにせよ、飽きてもいいから好きな事をやり続けていると総合的な能力が上がるんです。
だからこそ好きな事を飽きるまで思いっきり楽しんでいこうぜ。